毎度毎度、思い出したころに読んで新たな気づきを得るようにしているのがこの本、『世界で勝つグローバル人材の条件』です。
ここ最近の山本太郎騒動について考えている中で新たな発見がありました。山本太郎さんの天皇陛下へ手紙を渡した行為についてはさまざまな議論がありますが、山本太郎さんへの批判を見てみると「議員失格」とか「消えろ」とか「死ね」とか、そもそもその行為の是非についてではなく、彼の人格を否定する意見が非常に多いです。
発言や言動がその人の人格を表すという考えも分かります。発言や言動を生み出したのはその人自身ですし、それまでの人生によって形成された思考から出てくるものだというのは説得力があります。しかし私が思うのは、「とはいえ、どんな状況でも人格否定は良くない」ということです。
冒頭で紹介をした本の話に戻します。『「主張する者だけが生き残る」それがグローバル市場のルール』という章に次のようなタイトルがあります。
「意見を否定されても、人格まで否定されるわけではない」
–引用開始
外国人の中には、議論好きな人が多い。パーティーの席で出会った人同士が、あいさつもそこそこにディベートを始めるというシーンは、ごくありふれているものだ。
私も時々、議論の当事者になる。先日も、Facebook上である人とやりとりをした。きっかけになったのは、私のウォールへの投稿であった。先にも述べたラスベガスでのSALTのカンファレンスで拝聴したアル・ゴア元アメリカ副大統領のスピーチを、私の意見も交えながらまとめたのだ。
「ゴア氏のスピーチは素晴らしかった。話はうまいし、ヨーロッパの金融危機に関する分析は理路整然としていた。また、世界中で巻き起こっている異常気象に関する説明にも説得力があった…」
そんな感想をアップロードすると、ある外国人からすぐにコメントが付いた。「ゴア氏は間違っている。彼がドキュメンタリー映画『不都合な真実』で主張していることも、謝りが多い」というのが、その人の考えだった。私はすぐに彼に返信を送り、掲示板に場所を移してしばらくの間議論を行った。こうした議論は、テニスの練習試合に似ている。
互いのレベルが高く、腕前が拮抗している場合は、エキサイティングな打ち合いが楽しめる。また議論のラリーを行いながら、お互いの論点はもちろん、自分自身の思考も整理可能だ。そして、お互いに汗をかいた後は、話を切り上げて握手をする。そこでは、互いの意見を激しく否定し合うことはある。だが、相手の人格はしっかり尊重しているのだ。だから議論終了の笛が鳴ったら、互いに笑い合ってさわやかに分かれることが出来る。
だが、日本人の多くは、こうしたスタイルの議論が苦手だ。
議論をし、自分の意見を否定されると、自分の人格そのものが否定されたような気持ちになるのだろう。その結果、互いに傷つけ合うことを恐れて、できるだけ議論を避けようとする傾向が強くなってしまう。そして、本心では別の意見を抱いているのに、表面上は相手に賛成ような態度をみせてしまうのだ。
–引用ここまで
この本の中では、「日本人は意見を否定されると人格を否定されたように感じてしまう」とありますが、そもそも日本では「人格を否定する批判」をする人が多いようにも思えます。
たとえば「女のくせに」とか「だいたいお前は」とか、そういう人を対象とした発言がまさにそうです。そしてひとたび人格否定が始まると、もう本来の議論の道筋から外れてしまって意味のないイジメになってしまいます。
例を挙げてみます。
ケース1
工藤:「山本太郎氏の行動は非常識ではあるかもしれないけど、ルール違反をしたわけでもなく、議員辞職はやりすぎだと思う」
毛利:「いや、あいつは非常識だよ。だからやめるべきだろ。議員は常識人でないと」工藤:「議員は常識人でなければならないのでしょうか」
毛利:「そりゃそうだろ!国民の代表だもの」
工藤:「1億人、十人十色の日本人の代表が、全員その手の常識人であることのほうが異常じゃないですか。常識にない画期的な政策も考え付きませんよ」
毛利:「おまえも非常識なやつだな。そういうえばお前、高校生の癖して蝶ネクタイなんかして、お前みたいな不良学生は将来絶対に議員なんかなれないから安心しろ」
工藤:「そもそもまだお前に選挙権はないんだから安心しろよ。20歳になるまでに常識を身につけたほうが良いぜ」
工藤:「いやだから、常識って必要なんですか?安東暁史さんのブログの記事『「正解主義」「前例主義」「事なかれ主義」「常識主義」と決別しよう』でもかかれてますが、私も常識が必要という考え方には疑問があります」
毛利:「話になんねーよ。これだから常識のないやつは」
ケース2
工藤:「山本太郎氏の行動は非常識ではあるかもしれないけど、ルール違反をしたわけでもなく、議員辞職はやりすぎだと思う。」
毛利:「いや、あいつは非常識だよ。だからやめるべきだろ。議員は常識人でないと。」
工藤:「議員は常識人でなければならないのでしょうか」
毛利:「俺はそう思ってる。非常識というのは曖昧な言い方だが、非常識な言動ばかりでは国民のリーダーとしてリーダーシップが取れないと思わないか?」
工藤:「あーなるほど。たしかにそうですね。橋下氏の慰安婦発言のときに感じました。言っていることは正論なのに、言い方や態度がまずくて意見をそもそも国民に聞いてもらえていなかったです。そういう意味では常識的な行動というのは必要かもしれません。」
毛利:「だろ?」
工藤:「ただそれは言動であって、人として常識人であるかどうかというと微妙じゃありませんか?ある程度常識のある言動でないと批判を買ってしまって不利になるということは分かりましたが、それと山本太郎が辞職をしないといけない理由がどうも結びつきません。」
毛利:「どういう意味だ?」
工藤:「だってそういう議員は国民の支持を集められないから自然と次の選挙でいなくなりますでしょ。もし生き残れるのなら、非常識でも支持されているというベンチマークになります。で、さっきの論理だと、損をするのは自分だという点で常識の必要性は分かりましたが、参議院にとって山本太郎が邪魔である理由の説明にならないのでは?」
毛利:「確かにそうだな。まあ風評被害防止なのかもしれないな。なんらかの法案を通したとき『非常識議員が通した』とか訳のわからないことを言われる可能性があるだろ。本来は非常識議員が一人いたところで票決で決めるんだから関係ないけど、国民から見たら非常識な政府に見えるのかもしれない」
工藤:「だったら根本的に解決しないといけない問題は『非常識議員が一人存在していること』じゃなくて『一人の非常識議員に振り回されている、日本国民のリテラシの低さ』じゃないでしょうか」
毛利:「お前、スゴイこというな。若さゆえか。でも確かにお前の言うとおりかもしれない。最近考えが小さかったわ。根本解決とか、そういう視点がなかった。ありがとう。」
工藤:「いえ、こちらこそありがとうございます。そして生意気なクチの聞き方をしてすみませんでした。そもそも国民の意識やリテラシなんて変わるのに何十年もかかる問題だと思うので、政府が風評被害を恐れて非常識議員を排除するということも理解できました。」
ちょっと長くなってしまいました。。。でもどうでしょう。私はケース2のような「否定しながらも前向きな議論」が好きです。否定をするのはあくまで相手の意見であって、ケース1のように人格までは否定していません。ケース1では人格否定を始めた結果、毛利さんの中で工藤さんが「議論するに値しない、低レベルなヤツ」と無意識に認定されてしまっているかもしれません。これでは議論の中での気づきや意見の整理など良いことがありません。ただの子どもの喧嘩です。もしくはパワハラです。
議論をする際は
- 人格を否定されると思わず、のびのびと自由に自分の意見を言う。
- 相手の人格を否定しない。相手の意見とその裏にある思考に耳を傾ける。
- ケンカ腰ではなく、何か学び取ろうという姿勢で臨む。
という点に注意をしたいなと思います。