今日は普通に普通なことを書きます。
冷たい「自己責任」の果てにあるもの (イケダハヤトさん)
こちらを読んで2点、考えました。もう一回言いますが、当たり前すぎて堂々と書くことが恥ずかしいくらいのことです。では。
◇仕事において相手に手を差し伸べるということ◇
まずイケダハヤトさんの記事の中でも引用されているTwitterの内容
大阪の母子餓死を受けて「二人のように本当に困ってる人に生活保護を与えろ」という意見が散見される。だがもし、親子が死なないで生活保護を受けていたら、「働け」とあら探しされて「本当に困ってはいない人」として叩かれていただろう。日本で「本当に困ってる人」になるには、餓死か心中しかない。
— NPO法人POSSE雑誌編集部・坂倉昇平さん (@magazine_posse) 2013年5月27日
よく仕事の現場でも次のようなことがおきます。
(プロマネなどの例)
工藤さん「課長、今抱えている仕事が多く、そしてスケジュールもギリギリな状態で常に緊張の糸が張っている状態です。一つでもどこかで遅延が発生すれば全てのプロジェクトに飛び火する可能性があります。もう一人、だれかヘルプをよこしてください。」
北山課長「そうはいっても余力もないし、ギリギリとはいえ上手にコントロールできているじゃないか。ミスを起こさないように気をつけてあと1ヶ月乗り越えてくれ。」
と言われたり、どうせそう言われるだろうと、自分でなんとかして頑張ったら「もっと早くに助けを求めてくれよ」と言われる。人間の主観的判断とは非常にデタラメなもので、事前に人を投入できていれば、例えばまだあまり能力のない新人がサポートするだけでもプロジェクト全体が上手く回るようになるかもしれない。それこそ簡単な書類の整理などをしてくれるだけでプロマネの工藤さんは自分の仕事に専念できて問題発生のリスクを減らせるかもしれない。
でもひとたび問題が起こってしまっては、お客様に謝罪もしなくてはならないし賠償を求められるかもしれない。リカバリーにあたる人材も新人じゃなくてベテランが向かうことになるだろう。多くの場合、現場にいる工藤さんは肌でこういう危機感を感じていたりもするものだが、現場でない北山課長は「まあ大丈夫だろう」と高をくくってしまうケースがある。もしくは「上手く行けば余計なコストをかけないで済むし、実際、人を投入しなくても良いかもしれない」という希望的観測に基づいた愚かな判断をするかもしれない。
さいわい僕が働いている会社ではこの点は非常にコミュニケーションがとりやすいので、不満に感じたことはありませんが、業界雑誌を読んでいるとよくある話だそうです。
プロジェクトとかではなくても、上司に相談すれば「そんなことで相談してくるな」といわれたり、問題発生が発生して報告すると「何でもっと早く言わないんだ!」と怒られたりというのは他社で働く友達からも愚痴で聞いたりします。
さて、なぜこのような相互のギャップが起きるかというと、私が思うのは相手のことを信頼していないからではないかということです。もっというと思いやりです。
「工藤君が助けを求めているんだから、彼の判断を信じよう」とか「工藤君だったらこれくらい自分で乗り越えられるはずだけど何かあったのか、それとも私が聞ききれていない事情があるのか」など、相手を信頼した上での動き方が取れるかどうかだと思うのです。信頼できない相手だとしても「その行動の背景」を考えるということで、コミュニケーションギャップは埋められる可能性が高いですし、その分トラブルの発生も防げる可能性が高いと思います。
右の本はホワイトハウスのある部署で、1600人の上級公務員の必読書に指定された本です。コミュニケーションギャップが発生しないために「自分の主張が正しいという前提を取り除き、相手が何を考えているのか、その背景はなんなのか」と考えることが大事であると書かれています。色々なケーススタディがあり、非常にためになる本です。
◇自分に対しては常に自己責任であれ◇
また引用元の記事からです。
たとえば「ホームレス」状態にある人を「自己責任」として切り捨てるのは簡単です。彼らは自分の人生の選択に失敗した結果、ホームレス状態になってしまった。それは自己責任である。やつらは怠けもので、ダメなやつらなんだ。助ける必要などない。…本当にそうなんでしょうか?それは現実を見ていません。
ここで私が思うことは次の2つです。
- 困っている人には、手を差し伸べるべきである。(自分も社会も)
- 自分自身や家族が困らないために、おのおのが最大限努力をするべきである。
よくいう自分に厳しく、人に優しくです。
1年後に大規模リストラがあると想定して仕事をしてますか?
この記事でも書きましたが、いつリストラが起きるか分かりませんし、日本経済がこのまま下降の一途をたどれば生活保護で助けられるかどうかも分かりません。まあ憲法で最低限度の文化的な生活を営む権利を保障されていますから、そんなことにはならないでしょうが。
ここで改めて強く言いたいのは、「自分自身に甘くなっちゃいけない」ということです。「国が守ってくれるから、リストラなんてする会社が悪いんだから」とか言って自分を棚に上げるのではなく、自分自身が幸せに生きていくために最大限の努力をすべきだといっているのです。(私の成長意欲の根源はそこです。どんなに貧しくなっても自分の大切な人は絶対守りたいのです。もちろんどれだけ成長しても全ての人を守ることなんて出来ません。神にはなりえないのですから。)
それぞれがそれぞれの出来る範囲でも構わないから精一杯努力をして、それでもどうしようもない場合もあるでしょう、その時は社会が手を差し出しましょう。
「自己責任なんだよ、努力しなかったお前が悪いんだから死ね。」なんてことを言うつもりはありません。私は信仰を持ちませんが、そういう考えは個人的に嫌いです。(そういう考えは間違っているとか、人間じゃないとかいうつもりはありません。思想は自由です。)
信じあえ、助け合える文化って、本当にステキだと思います。
でも南海トラフ:巨大地震 備蓄は1週間分以上で取り上げられたように一週間分の備蓄はしておきなさいとお上からアドバイスがあるのに、例えば私は地震なんて来ないだろうと高をくくっていたとしますよ。実際に地震が起きて、私は食料を貯めていなかったからそのせいで地震の次の日にはもう食料が尽きて、配給を早々に貰ったら周りは迷惑しますよ。もちろん事情があって備蓄できなかった人もいるでしょうけどね。それぞれができる範囲でちゃんとやりましょうということが言いたいのです。
【最後に】
実は今日、Facebookで次のようなことを書きました。
街で見かける「○○募金にご協力、よろしくお願いします!」の類いの募金には協力するときもあるけど、コンビニのレジにある募金箱にはいれないようにしている。
なんかこう、「おつりを財布にしまうのがめんどう」という時に入れたくなるけど、そんな汚い気持ちで集まった募金なんて嫌だ。
とくに1円玉とかが入ってるのが気に入らない。そりゃ発展途上国に行けば価値は日本にあるより高くなるんだろうけど、入れる側の気持ちが「1円くらい」という気持ちだったらやっぱり綺麗な募金じゃないと思う。
街の募金だと1000円くらい入れるのが普通だし。
僕はクリスチャンじゃないけど聖書では、献金にて大切なことは「何円入れるかじゃなくて、どういう気持ちで入れるか」だと書いてあったと記憶している。たしか聖書のエピソードでは、金持ちがたくさん献金したことは別に褒めることではなく、無茶苦茶貧しい人が苦しい中で献金したことをイエスはめっちゃ褒めてた。
献金と募金で性格が違うのかもしれないけど、自分の中ではそういう気持ちである。
さあ、今日も頑張るぜよ
色々な批判を受けました。「募金にキレイも汚いもない」、「彼らは必要としているんだから」など。ごもっともな指摘だし私が勝手に自分の中でバイアスかけてて、そのせいで上のような発言をして、多くの人に不快な思いをさせてしまいました。申し訳ない気持ちで一杯です。
ただこれを書いたときにはコンビニのレジにある募金箱に募金している人がどういう気持ちで募金をしているのかを考えなかった。本文で書いていることと真逆のことを私はしているわけです。
自分のことを棚に上げたくはないのですが、人間だれしも常に相手のことを考えることは難しいのではないかと思います。だからこそ少しでも相手のことを思うように、心がけるようにしていきたいなと感じました。
今日は以上です。