その考えは『脱社畜』かもしれないが『突家畜』であると、私は思う。

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こちらの記事を読んでのエントリーです。

「やりがいのある仕事」という幻想 (From 脱社畜ブログ)

初めにいくつか断っておきます。

  • 考え自体に真逆なスタンスを取るという意味でかなりアグレッシブなタイトルをつけましたが、脱社畜ブログさんを攻撃するつもりは毛頭ありません。
  • この記事を書く意図は発想の多様性を訴えるためです。後述しますが私は脱社畜ブログさんの考えに非常に共感するところが多いですが、「同じような考えを持っていても一つ一つの議題については真逆なスタンスを取ることだってあるし、それでいいじゃないか!」ということを主張したいのです。

では本題です。まず私は脱社畜ブログさんは、RSS登録して毎日拝見しており、更新を最も楽しみにしているブログの一つです。”脱社畜”“働くって楽しい”という一見相容れない二つのコンセプトが交差するシーンが時々あり、これが非常に面白いのです。

今回は冒頭で引用した記事である”「やりがいのある仕事」という幻想”という記事で強く主張されていた内容に非常に興味深い部分があったので引用しながら私の持論を展開します。イタリック体になっている部分は「やりがいのある仕事」という幻想 (朝日新書)という書籍から引用されている内容です。

以下引用

中には、自分が書いたのではないかと錯覚するような記述まであり(これは森先生に失礼か)、そのぐらい共感できるところが多い本だった。例えば、以下の記述は本文にも帯にも書いてあるものなのだが、僕はこれと同じことを大学生の時から考え始めて、未だにずっと考えている。

人は働くために生まれてきたのではない。どちらかというと、働かないほうが良い状態だ。働かない方が楽しいし、疲れないし、健康的だ。あらゆる面において、働かない方が人間的だといえる。ただ、一点だけ、お金が稼げないという問題があるだけである。

引用ここまで

ここからは私安東の考えです。そもそも人間はお金を稼ぐために働くのではないと思っています。社会貢献のためでも自己実現のためでもなく、生きるために働くものだと思っています。自給自足の生活であれば作物や獲物をとることが働くことです。世界を見渡せばお金ではなく直接食べ物を得るために働く民族は数多くいます。そんななか、日本では多くの場合「食べる⇒お金で食物を得る⇒だからお金が必要」という発想になります。

どちらが正しいとかではなく、人間としてどちらのスタイルもありえます。では働くことが直接食べることに影響する生活の場合、働かないという選択肢はありえるでしょうか。愚問だと思います。つまり働くことは人間が生きていくうえで必要不可欠なのです。日本を例にすると沢山働いて生産した人がいるからお金で食材を得ることができるし、働かなくてもお金を得る手段があることを考えると「働きたくないけど食べたい」という発想になってしまう気持ちも分かりますが、ミニマムな単位から考えると、これはおかしな発想であることがわかります。

ちょっと話を変えます。
野犬と飼い犬で考えてみます。野犬はえさを自分自身で確保しなくてはなりません。それが出来なければ死にます。野犬に限らず野生生物は皆そうです。生きるために働くという正にその姿です。僕は生きとし生けるもの、全てそういうものなんじゃないのかなと思っています。

反対に飼い犬は飼い主がえさをくれますから自分で働かなくても生きていけます。親のすねかじりのニートだってそうです。でもそれって飼われるから生きていけるのであって、飼われないと存在価値がない、そういう意味でタイトルにつけたように「家畜」や「ペット」のような存在意義となってしまうのではないかと思います。

◇最後に◇

私の働く意味は次のエントリーで詳しく述べておりますので、こちらもあわせてお読みください。
何の為に働く?ナゼ働く?あなたにとって働くってナニ?

こういう発想は、飼っているハムスターを観察していて思うようになりました。こいつは何のために生きているのだろう、動物はなんのために必死にエサを探すのだろうと考えたことがきっかけです。

最後にヱヴァンゲリヲンの加持さんの台詞を引用して締めくくります。
「何かを作る、何かを育てるってのはいいぞ。いろんなことが見えるし わかってくる。」 

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